清水 一嘉 著
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トルストイの翻訳はすでに述べたように、海外文学をいち早く翻訳紹介するプレスの特徴のひとつとなるものであった。フォースターやエリオットやグレイヴスやリードを見てわかるように、プレスのもうひとつの大きな特徴であり同時に功績であったのは、まだ世に認められていないすぐれた才能を発掘し、かれらにチャンスを与えることであった。一般の商業出版社が躊躇するような作家や作品をとりあげようというのが、プレス設立当初からの目的であった。プレスは新しい作家や詩人たちの拠点として次第に名声を高めつつあった。若いひとたちの出入りがはげしくなり、原稿の持ち込みが多くなった。エリオットの『荒地』は「20世紀、他のどの詩よりも英詩に、いや英文学により大きな影響力を与えた詩」として、20世紀文学の道標と目される作品となった。レナードは誇らしげにいう。「1923年に出版した13点のうち、こんにち重要な作家の重要な作品として評価されていないものは3点にすぎない。他の10点はいまでもそれを獲得するのをよろこばない出版社はまずいないといってよかろう」と。
1923年という年はまたレナードが雑誌『ネイション』の文芸担当編集者になった年である。このことはプレスのために大いに益した。レナードは書いている。
さて、つぎの1924年もまたプレスにとっては一大飛躍の年であった。3月、リッチモンドのホガース・ハウスからレナードの文中に見られるタヴィストック・スクェアへの移転がおこなわれた年である。ホガース・ハウスにも未練はあったが、リッチモンドという地理的条件が拡大するプレスの運営に不利にはたらいたし、劇場、美術館、コンサートホール、友人知人から遠くはなれて生活することの孤独感が耐えがたくなりつつもあった。タヴィストック・スクェア52番地。ブルームズベリの一角にあるこの家の三階と四階をふたりの居室にあて、地下室をプレスにあてた。これまでの台所兼用とはちがって、独立したひとつの場所を確保したのである。ホガース・プレスにとっての新たな第一歩であった。
この年まで、一方では手引き印刷本を趣味的に出版しながら、他方ではページ数の多い本を専門の印刷業者に依頼し、着実に商業出版社への道を歩きつつあったプレスも、しかし、タヴィストック・スクェアに移るまでは「いまだアマチュア的」な出版社の域を出ていなかった。それがこの移転を契機にいまや「羽根の出そろった出版社」となりひとり立ちすることになったのである。
この年、プレスにとっては重要な企画をふたつ実行に移した。そのひとつは「国際精神分析叢書」の英訳出版である。これはウィーンにあるフロイトの精神分析研究所の出した研究論文を、フロイトの弟子アーネスト・ジョーンズが研究所の支部をロンドンに設立するに際して、英訳してイギリスの読者に提供しようとしたものである。すでにべつな出版社から6冊が出版されていたが、1924年以後はホガース・プレスの手にゆだねられた。その最初の出版物が『フロイト著作集』の第1巻および第2巻であった。以後フロイトの著作を含めた研究所の論文がつぎつぎと出版され、1967年には約70点に達し、プレスの出版物の大きな特徴となった。プレスはのちに『フロイド全集』のユニフォーム版21巻を1935年から1966年にかけて出版している。
もうひとつの企画は、「ホガース・エッセイズ」シリーズの刊行である。短いパンフレット形式のこのシリーズは以後つづけて出版される数々のシリーズ物の先駆けとなった。「ホガース・エッセイズ」シリーズは総点数19冊を出して1926年に終わり、つづけて「第二ホガース・エッセイズ」シリーズ16点が1926年から1928年にかけて刊行された。平均2シリング6ペンス、20ページから60ページの小さなパンフレットは、その簡潔で刺激的な内容ゆえに新鮮なよろこびを読者に提供した。文学や批評の領域ばかりでなく、政治や経済の領域においても同様であった。レナードは書いている。
かくして、小さな手引き印刷機一台からはじまったホガース・プレスはわずか7、8年のあいだに急速な成長発展をとげ、同時代の文学、経済、社会その他あらゆる分野で真摯で知的な提言を投げかける出版社として、20世紀イギリス出版史上に大きな足跡を残すことになった。レナードはプレス成功の秘密をつぎのように分析する。
(C) Copyright Kazuyoshi Shimizu & VWW 1998-99
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