清水 一嘉 著
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『ジェイコブの部屋』はエディンバラの印刷屋クラークによって初版1200部が印刷された。売れゆきは好調で、ほどなく1000部を増刷した。
ヴァージニアは、作家や芸術家によくある職業病とでもいうべきものに悩まされていた。つまり、自分の書いたものに対する批評には飛び抜けて神経過敏になるという性格である。ダックワース社が異父兄弟の経営する会社であり、処女作『船出』(1915)を読んだリーダーのエドワード・ガーネットが熱烈な賛辞を送ったにもかかわらず、自作をジェラルド・ダックワースやガーネットに送り、かれらに読んでもらわなければならないと考えるだけで彼女の神経は尋常でなくなるのであった。
そんな風であったから、『ジェイコブの部屋』はホガース・プレスから出すのがよいとレナードは考えた。いまではそれができるほどにプレスは成長していたのである。この考えはヴァージニアをことのほかよろこばせた。これで、この実験的な小説を他の出版者やリーダーの目にさらすみじめさから回避できると思ったからである。以後ヴァージニアの作品は長短編にかかわらずすべてホガース・プレスから出ることになる。レナードはいっている--「ホガース・プレスの発展は、ヴァージニアの作家としての発展と文学的創造的精神と切っても切れない関係にある」と。
印刷機の購入がヴァージニアに「作業療法」の役割をはたし、プレスが発展したいまは彼女の本の出版社として重要な役割を担うようになった。プレスがなかったら、ヴァージニアの作品もいまあるような形で残ったかどうかうたがわしいのである。彼女は書いている。
ホガース・プレスが専業の従業員を必要としつつあったことはたしかである。これまでは、ひまな時間を利用して自分なりのやり方で運営してきたし、これで金もうけしようなどとは思っていなかった。しかし、過去5年間の経験がかれらにプレスの存在の意義を認識させはじめていたことも否定できない。レナードはいう。
そんなとき、ふたりの気持ちを知っていたかのように、アメリカ人ジェイムズ・ウィタルが共同経営者になってもよいと申し出てきた。しかし、ウィタルが考えているような方向、つまりホガース・プレスをケルムスコット・プレスやナンサッチ・プレスのような美術工芸を中心とした私家版工房にする気持ちはかれらにはなかった。大出版社ハイネマンからの魅力的な申し出があったのもその頃である。共同経営の形にはするが、「脳髄と血液はかれらに与え、販売と経理はハイネマンが面倒をみる」というものであった。しかしこれも結局は、レナードの「われわれは、そのような大きな蜘蛛の巣のなかに安全に入るにはあまりにも小さな蝿である」という危惧感から拒否するしかなかった。あとから考えると賢明な選択であったといってよかろう。
ところが、ちょうどその頃、レストランで隣の席にすわっていたというまったくの偶然から、印刷と出版に特別の関心をよせるひとりの女性にめぐりあった。その女性マージョリ・ジョードは、翌1923年の1月からプレスでは働くことになった。年給100ポンドに利益の50パーセントを支給するという雇用条件であった。もちろん専業の従業員としてである。パートリッジは3月に去り、ジョードは1925年までとどまることになる。1923年2月7日の日記にヴァージニアは、「いまやプレスはその魅力のいく分かを失い、よりまじめなものとなりつつある。以前とは異なった魅力がでてくればよいと思うのだが」と書いている。1922年はこんな風にして終わった。