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ホガース・プレス

ヴァージニア & レナード


清水 一嘉 著

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1915〜171917 (2)|191819191920〜21|■19221923〜30 | 付録

 翌1922年には、ヴァージニアの『ジェイコブの部屋』をふくむ6点が出版された。このうち2点が手引き印刷本ではない。なぜなら、『ジェイコブの部屋』は290ページにも及ぶ長編で、プレスはじまって以来の長さだったからである。ふたりが手引き印刷できる分量はせいぜい50ページどまりで、それ以上になると外部へ発注せざるを得ない。この年の手引き印刷本2冊をみても、それぞれ43ページと45ページで、『ジェイコブの部屋』を含む外部発注本はほとんどが100ページをこす分量であった。

 『ジェイコブの部屋』はエディンバラの印刷屋クラークによって初版1200部が印刷された。売れゆきは好調で、ほどなく1000部を増刷した。
  


 レナードはそんな風に書いた。それまでヴァージニアは2編の長編小説を出版しているが、これほど多くの読者を獲得したことはなかった。その2編は彼女の異父兄弟の経営するジェラルド・ダックワース社から出版されており、『ジェイコブの部屋』も本来ならそこから出すことになっていた。それをあえてホガース・プレスから出すことにした背景にはヴァージニアにたいする並々ならぬ配慮があった。

 ヴァージニアは、作家や芸術家によくある職業病とでもいうべきものに悩まされていた。つまり、自分の書いたものに対する批評には飛び抜けて神経過敏になるという性格である。ダックワース社が異父兄弟の経営する会社であり、処女作『船出』(1915)を読んだリーダーのエドワード・ガーネットが熱烈な賛辞を送ったにもかかわらず、自作をジェラルド・ダックワースやガーネットに送り、かれらに読んでもらわなければならないと考えるだけで彼女の神経は尋常でなくなるのであった。

 そんな風であったから、『ジェイコブの部屋』はホガース・プレスから出すのがよいとレナードは考えた。いまではそれができるほどにプレスは成長していたのである。この考えはヴァージニアをことのほかよろこばせた。これで、この実験的な小説を他の出版者やリーダーの目にさらすみじめさから回避できると思ったからである。以後ヴァージニアの作品は長短編にかかわらずすべてホガース・プレスから出ることになる。レナードはいっている--「ホガース・プレスの発展は、ヴァージニアの作家としての発展と文学的創造的精神と切っても切れない関係にある」と。

 印刷機の購入がヴァージニアに「作業療法」の役割をはたし、プレスが発展したいまは彼女の本の出版社として重要な役割を担うようになった。プレスがなかったら、ヴァージニアの作品もいまあるような形で残ったかどうかうたがわしいのである。彼女は書いている。
  


 『ジェイコブの部屋』の成功の一方では、1922年という年は波瀾ぶくみの年でもあった。問題は助手にあった。1920年10月採用のラルフ・パートリッジは週3回のパート・タイマーで、その上気まぐれであった。これではプレスの仕事から少しでも解放されたいと願うウルフ夫妻を満足させるものではない。パートリッジには出版業に専心してほしかったが、かれは承知しなかった。

 ホガース・プレスが専業の従業員を必要としつつあったことはたしかである。これまでは、ひまな時間を利用して自分なりのやり方で運営してきたし、これで金もうけしようなどとは思っていなかった。しかし、過去5年間の経験がかれらにプレスの存在の意義を認識させはじめていたことも否定できない。レナードはいう。
  


 こうした自覚にささえられていればこそ、まじめに働いてくれる従業員がぜひともほしかった。しかし、希望通りの人間、しかもかれらが望む若いひとをさがすのはむつかしい。パートリッジについてはこれ以上はもう期待できなかった。進退きわまる状況に置かれたかれらは、「われわれはプレスを完全に放棄するか、それともだれかマネージャーか共同経営者を獲得して、われわれが望む方向に向けて一から出なおすか」という問題に直面した。じつをいって、この頃からかれらはプレスを放棄して本来の仕事に専念したいという気持ちにかたむいていたのである。しかし一方ではプレスをやめるな、存続させよという外部からの声がかれらの気持ちを動揺させもしていた。--こういったジレンマはこのときにかぎらず、以後くりかえしかれらを悩ますことになる。

 そんなとき、ふたりの気持ちを知っていたかのように、アメリカ人ジェイムズ・ウィタルが共同経営者になってもよいと申し出てきた。しかし、ウィタルが考えているような方向、つまりホガース・プレスをケルムスコット・プレスやナンサッチ・プレスのような美術工芸を中心とした私家版工房にする気持ちはかれらにはなかった。大出版社ハイネマンからの魅力的な申し出があったのもその頃である。共同経営の形にはするが、「脳髄と血液はかれらに与え、販売と経理はハイネマンが面倒をみる」というものであった。しかしこれも結局は、レナードの「われわれは、そのような大きな蜘蛛の巣のなかに安全に入るにはあまりにも小さな蝿である」という危惧感から拒否するしかなかった。あとから考えると賢明な選択であったといってよかろう。

 ところが、ちょうどその頃、レストランで隣の席にすわっていたというまったくの偶然から、印刷と出版に特別の関心をよせるひとりの女性にめぐりあった。その女性マージョリ・ジョードは、翌1923年の1月からプレスでは働くことになった。年給100ポンドに利益の50パーセントを支給するという雇用条件であった。もちろん専業の従業員としてである。パートリッジは3月に去り、ジョードは1925年までとどまることになる。1923年2月7日の日記にヴァージニアは、「いまやプレスはその魅力のいく分かを失い、よりまじめなものとなりつつある。以前とは異なった魅力がでてくればよいと思うのだが」と書いている。1922年はこんな風にして終わった。


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