清水 一嘉 著
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ゴーリキーの本はロシア語からの翻訳で、翻訳者はこの本をもち込んだロシア人コテリアンスキーであった。といっても、コテリアンスキーの書く英語はいささか奇妙なものであったから、レナードがてつだってまともな英語になおす必要があった。このためレナードはロシア語を学び、一時はまがりなりにも新聞が読めるほどまでに上達した。ゴーリキーの翻訳以後、コテリアンスキーのロシア文学の翻訳は、チェホフ、トルストイ、ドストエフスキーなどを含めて、3年間に6冊が追加された。そのうち3冊はレナードがてつだい、3冊はヴァージニアがてつだった。ヴァージニアもまたロシア語を学んだのである。
『レフ・トルストイの思い出』は大成功であった。7月に出版されると、数カ月後には初版1000部が売り切れ、翌年の1月に増刷され、以後も着実に売れつづけた。そればかりではない。『ロンドン・マーキュリー』誌が部分的な掲載権を15ポンドで買い取り、アメリカでの版権も90ポンドで売れた。コテリアンスキーはこれら副次権による収入の二分の一をとり、かつ利益の25パーセントをもらったので、1920年の終わりには、約50ポンドの収入を得た。当時としては相当な額であった。--そして、ロシア文学の翻訳は以後ホガース・プレスを特徴づける出版物のひとつとなった。そのことはたとえば1938年までに29点の翻訳が出、そのほとんどが「本邦初訳」であったのを見てもわかる。
かくして、ゴーリキーの出版を契機にホガース・プレスは、「ほとんど意図せぬうちに一般の出版社へと変身していた。」そして「そのときからプレスはたえず本の提供を受け、そのいくつかは自分たちで印刷できないまでも、拒否するにはしのびないもの」として、専門の印刷業者に依頼することにした。このときかれらは、文字通り意図せぬうちに商業出版者の一員となりつつあった。
プレスの経営内容も悪くはなかった。最初の4年間、つまり1920年の終わりまでの投下資本は38ポンド8シリング6ペンス、それにたいする総利益は90ポンドであった。資金を要したおもなものは印刷機と活字で、ヴァージニアとレナードの投資した時間と労力は計算にいれておらず、その上プレスは自分たちの家にあったから家賃もいらない。したがって必要な諸経費は、用紙やその他の器材、アルバイト代、それに作者に支払う印税くらいであった。
ホガース・プレスはこのように専門的な商業出版社のコースを歩きはじめたが、くりかえすように、これはあくまでもかれらの意に反することであった。当初からそれを望んでいたわけではもちろんない。かれらの本来の仕事はいうまでもなく本を書くことであり、印刷や本の出版は趣味の領域にとどめておきたかった。しかし、これまで4年間の経験は、自分で印刷し出版することのよろこびをかれらに実感させたこともたしかである。レナードはこの頃の気持ちをつぎのように書いている。
翌1921年になると、出版点数はヴァージニアの『月曜日か火曜日』、レナードの『東洋の物語』、クライブ・ベル(ヴァネッサの夫)の『詩集』をふくめて6点となった。このうち手びき印刷本は4点である。そして、10月にはもう1台の印刷機も70ポンド10シリングで購入した。これはかつてマンスフィールドの『序曲』を印刷したマクダーモットの印刷機と同種の足踏み式プラテン印刷機であった。
新しい印刷機がはいっても、しかし、彼らが自分で活字をひろい、印刷するという手びき印刷本はしだい数を減じていく。(そしてその後1932年を最後に、合計34点をもってホガース・プレスの手引き印刷は終わった)