清水 一嘉 著
□目次へ ■は現在地
マンスフィールドの作品も短編ではあったが、ページ数にして68ページ、『ふたつの物語』の約2倍の分量である。前回のことを考えると、ふたりでとり組むには少々荷が重すぎる。そこでホガース・プレスとしてははじめての助手を雇いいれることにした。最初にやってきたのは友人のアリックス・サージャント・フローレンスであった。しかし、1日働いただけで、かれは活字ひろいの仕事があまりにも単調で退屈すぎるといってやめていった。つぎにやってきたのは姉ヴァネッサの友人バーバラ・ハイルズである。ヴァージニアはハムステッドにあるハイルズの家までわざわざ出かけて、「リッチモンドまでの汽車の定期券と出版物の利益の半分とそれに昼食とティーを提供しよう」、そして「昼食には肉と野菜二種類それにプディングが出る」ことを伝えたという。ハイルズは書いている。
午後はヴァージニアもてつだった。そしてマンスフィールドの短編小説『序曲』の大部分の組版はふたりで仕上げたのである。レナードはいつも手が小刻みにふるえる持病があって、小さな活字を扱うのは困難であったから、もっぱら印刷機の方を受け持った。その頃のヴァージニアの日記につぎのような文章がある。
マクダーモットと知りあうようになったのは、それより以前、かれらが『ふたつの物語』を印刷していた頃のことである。レナードはある日刷り上がった校正刷りを見て、自分では処理できない理解不能な難点に気づいた。活字が一様に黒く印刷されないで、いたるところに小さな白い斑点がある。手引書を見てもわからない。何時間か格闘したあとで、レナードは以前からその存在に気づいていたマクダーモットの印刷屋に出かけていった。そしていく分びくびくしながらも、自分が印刷をひとりでおぼえようとしていること、そして理解できない困難におちいったことを説明し、校正刷りを見せ解答を求めた。マクダーモットはそれを見ると、「活字がすわっていない。それだけさ」といって、その原因を説明した。活字の締め版わくのなかに活字をはめ込むとき、全体が完全に平らになるようにしないと、「活字が浮き」、そのためにうまく刷れないのだという。
このことがきっかけで、ふたりは友人となり、ウルフ夫妻がリッチモンドにいるあいだその関係はつづいた。マクダーモットはかつてロンドンの大きな印刷会社で植字工として働いた経験があり、その間貯金をして、念願の印刷屋を設立して独立したのであった。旧式のアルビオン印刷機と2台のプラテン印刷機をもち、後者の1台は動力式、1台は足踏み式であった。レナードと知りあう直前には大きな輪転機まで買い入れていたが、かれが借りることにしたのは足踏み式のプラテン印刷機であった。これだと一度に4ページ分が刷れる。マクダーモットから4ページ分の活字締め版わくを借り、レナードは、ヴァージニアとハイルズのつくった組版をもってマクダーモットの「プロンプト・プレス」までゆき、自分で機械を動かし印刷した。ハイルズがてつだうこともあったが、機械に紙を入れ、同時にペダルを足で踏むというこの印刷機では、背の低い彼女には危険であった。ふたつの動作を同時にやれないばかりか、フレームが紙の上に落ちてくるとき機械のなかにたおれ込みそうになる。レナードは予想される事故を察して、自分で(マクダーモットの助けを借りながら)印刷することにし、ハイルズは家にいてヴァージニアと組版の仕事に専念することにした。
前にくらべると印刷はずいぶん早くできるようになった。それでも完成までに9か月を要し、『序曲』はホガース・プレスの出版物第2号として、1918年7月に刊行された。印刷部数300部、定価は3シリング6ペンスであった。前回にくらべて売れ行きはかんばしくなかったが、5年後の1923年には売り切れた。そのときのプレスの純利益は16ポンド弱、著者には5ポンド6シリング6ペンスの印税が支払われた。印税率は利益の25パーセントであった。
『序曲』が出版される前にハイルズは結婚のためプレスを去っていた。その年の終わり頃ヴァージニアとレナードは彼女のもとをおとずれ、利益の配当金を支払った。ハイルズは書いている。
『序曲』についで、1918年にはもう1冊の小さな本が出版された。シドニー・ウルフの『詩集』である。シドニー・ウルフはレナードの弟で、第一次大戦中フランスでの戦いで若くして戦死した。『詩集』には1909年から1914年までに書かれた17編の詩が収録されているが、出版日および発行部数は不明である。シドニーの友人知人に小部数配られたものと思われ、いまその所在がつきとめられているのは、リリーの図書館にある1冊と大英図書館にある1冊だけだという。もちろん市販もしなかったし、予約購読者を募ることもなかった。19ページの小さな無名の詩人の遺稿詩集である。レナードやウルフの個人的な思い出につながる愛情あふるる出版物であったといえる。